hanekakusiのブログ

『猫とかわうそ』http://hanekakusi.web.fc2.com製作日記です。読書の感想も書いています。

『発光妖精とモスラ』

映画モスラの原作本です。何故読んだかと言うと、作者が凄いんです。意外すぎるのですが、当時の日本を代表する文学者、中村真一郎福永武彦堀田善衛の三人が、それぞれ序盤、中盤、終盤を分担してリレー方式で書いています。何やってんでしょうね。まあしかし、リレーであっても遊びではなく仕事で書いているので、予め筋書きも話し合ってはいたようです。友だち同士でやるリレー小説なら無茶ぶりして遊んだりするのが楽しいものですが、そういうのじゃないです。

中村真一郎はネルヴァルの翻訳で好きになりました。しかし今作は・・正直やや微妙でした。ゾラなどの翻訳をしている某教授もですけど、翻訳の文章はあれだけ書けるのに、どうして自分の作品は素人っぽくなってしまうのか不思議でなりません。やっぱり違うものなんでしょうか。まあでも悪口はこのくらいにして、その代わり中盤を担当した福永武彦が、今回とてもいい仕事をしていると思います。文章の巧さもさる事ながら、中村氏の書いた(必ずしも上手いとは言えないと私は思う)内容を随所でちゃんと引用して引き立てつつ、モスラが卵から孵化した、ここからが見せ場というおいしいところで次の堀田善衛にバトンタッチしています。福永武彦はあまり読んではいないですが、何か優しい人ですね。この三人は学生時代から仲良しだったそうですが、みんな思いやりがある感じでいいですね。

作品の内容は、非常に戦後色の強いものです。インファント島という架空の島が登場しますが、恐らくここに日本を重ねています。この島では近年核実験が行われたのですが、原住民は放射能を無害化する方法を知っているので平気で暮しています。彼らは光る美人の小人たちを自分たちの女神として大切にしています。しかしロシリカ国(ロシアとアメリカを合わせた国名)のネルソンという悪者が原住民を虐殺して小人を連れ去ります。そのせいでモスラが暴走し、 東京とロシリカの大都市を壊滅させる。この筋書きの背景には安保闘争があったようです。

それにしても、何でモスラはもっと強そうな怪獣でなくて蛾にしたのかと以前から思っていましたが、「巨大な蚕」という表現があって納得しました。日本は昔から養蚕の国ですし、まさに日本を象徴する怪獣なんですね。

 

 

オーウェル『一九八四年』

この作品は1950年に書かれたものなので、当時の新未来小説です。20世紀を代表する作品と聞いていたのですが、政治的意図が強すぎて私の好きなタイプの小説ではありません。ここでは政治の話はあまりしないでおきますが、集団主義批判については実社会で暗黙的に行われているような事も書かれていますし、今でも現実味があると思います。現に、余計な事は知ろうとはせず、権力のある人が2+2=5と言うならそれに従った方が安全ですね。

書かれている内容が悪いわけではないのですが、小説としてあまり好きではないので深く読み解けているわけではありません。しかし気になる点をいくつか書こうと思います。一つは、主人公はなぜ思考警察のオブライエンに引かれたのかという事です。彼は思考犯になる事を知りながら、いつかオブライエンに読んでもらうために日記を書きます。逮捕されてからも、オブライエンは迫害者であるだけでなく、唯一の理解者であり、自分の守護者とも思っているのです。主人公は最初から、オブライエンの手によって人間として自分が死んで、集団に同化する事を望んでいたのでしょうか。

もう一つは、主人公たちの言動についてです。思考警察によって、彼らは自分が助かる為なら誰彼構わず犠牲にする事も余儀なくされました。しかし彼らはそれ以前から利己的であったように思います。主人公は日々、役所で歴史の改ざんの仕事に勤しんでいます。恋人のジュリアも権力への反抗と言いながら性的に奔放であるだけに見えます。彼女は自分の身を守るために率先して権力におもねる行動を取っています。スパイ団の班長もしていたと言っていましたが、きっと誰かを告発した事もあったでしょう。彼らが利己的なのは逮捕される前からです。決して理想高き反逆者ではありませんでした。身を守る為に他者を犠牲にする事は彼らが以前からして来た事ですし、恐らくこういう社会で生き延びるにはそれしか手がないのでしょう。

作中の政府は、どうしてここまで労力を消費してまで国民の一人一人を監視していちいち矯正しようとするのだろうか、めんどくさいだけじゃないか、と疑問に思いながら読んでいましたが、その答えは書いてありました。すべては権力の為であり、権力とは他者の苦痛により保証されるものだという事です。私としてはとても納得の行く説明です。人が人の苦痛を積極的に願う理由はすべてそこにあるのかも知れません。

『身体はトラウマを記録する』

PTSDの権威によるPTSD研究の集大成みたいな本です。専門家向きですが、一般読者にもこれだけの内容のものが読めるようになっているのは素晴らしいことです。専門家でもここまでPTSDの事がわかっている人ばかりではないでしょう。ただ具体的事例が多いので、フラッシュバックには気をつけて読まれるといいと思います。虐待というのはどこの家庭にもごく普通にある事ですから、この本を必要とする人も多いでしょう。ここではPTSDの社会性がなくなったり無気力になったりというような周囲から理解されないつらい症状についても、脳科学から原因を説明してくれています。目からウロコです。

近年は抗精神病薬もいいものが沢山開発されていますし、おかげで多くの長期入院患者が自宅に帰れるようになりました。薬の恩恵はとても大きいものですが、あまりに薬物療法中心になり過ぎると、極端になると医師の役割はDSMの診断名に患者を当てはめて薬をだすだけになりかねないと著者は危惧します。病因が何であれ、薬を投与してしまえば患者は大人しくなり文句も言わなくなってしまいます。そうなると背景に虐待などがあっても解決されないままです。まあ、何か悲惨な体験でもしない限りふつう統合失調になんてならないですよ。抱えている過去の経験を清算できたら薬の量が減らせる人もいるかもしれません。トランキライザは副作用もありますからね。

この本では日本ではあまりまだ馴染みのない治療法が色々紹介されています。EMDRとか面白いですね。指の動きを患者に目で追わせるだけで回復してしまうとは・・俄かには信じ難いですが、エビデンスあるらしいですよ。こうした治療法の多くは分析のような言葉によるものでなく、身体や脳に働きかけるものです。確かに、暴力などつらい体験をして来た人にその体験を言葉で語らせるような苦痛の多い治療は酷なものです。そんな過酷な体験を重ねるよりも、体に心地よい感覚を与えたり、安心できる人間関係の中に身を置いたりする事の方が癒しに繋がるかもしれません。それに、言葉を使う治療はどうしてもインデリジェンスの高い人が有利になってしまいますが、そうでなければ環境のせいで教育を受けられなかったような人にも使えることでしょう。

私は無神論者ですし、絶対的な治療法があるとは信じていません。患者ごとに背景は異なりますし、違った解決法を探していかなくてはなりません。選択肢は多い方がいいですね。

ネルヴァル『火の娘たち』

ネルヴァルの生前最後の著作で、短編集です。冒頭はデュマ宛ての手紙ですが、これを読んだ時には少々心配になりました。劇場に火をつけるとかいう話で、何やら陰謀説を唱えているのですが・・・違います。あなたはその女優にフラれたんです。若い頃はイケメンだったようですが、作品中にも自分で書いていたでしょう。「何て細くてきれいな金髪なのかしら」― 毛根が弱かったんです。仕方ありません。

しかし中の作品はまったく心配には及ばず・・むしろどうして自殺してしまったのかと思いました。それにしてもこの人の書くものって毒とか悪意がほとんど感じられない、というか通常は人にあるはずのそれが抜け落ちているのかもしれません。読んでて何だか愛おしくなりました。

ここに書かれているのは主に叶わぬ恋や、悲劇の恋の物語です。どうしてか、愛し合う二人が結ばれて幸せに暮らしました、とはならないのです。『シルヴィ』の主人公は幼なじみを愛し、また一夜出会った高貴な娘を、美しき女優を愛しました。そしてある女は彼は心変わりしたと言い、ある女は彼が愛するのは自分でないと言いました。しかし主人公は決して移り気ではありませんでした。彼が愛したのはいつもたった一人の女性で、その女性にはどんなに望んでも永遠に近づくことができないのでした。その女性は世界中のあらゆる女神の名で呼ばれながら、唯一の女性です。彼女の事をネルヴァルは『黄金の驢馬』の女神イシスに見出します。古文書の中に美しきアンジェリックの痕跡をさがしながらも、きっとこの唯一の女性を夢見たのでしょう。彼の愛はいつもひたむきでした。しかしネルヴァルの純真で、幾らか子どもじみた恋愛が叶えられることはついにありませんでした。「私のために存在していながら私の存在さえも知らぬ唯一の女性からは四百里も離れて。愛されていず、いつか愛される希望もない」

ネルヴァルはゲーテの『ファウスト』の翻訳者でもありました。「永遠に女性なるもの」のことを、彼は追い求めて行ったのでしょうか。「サイスの女神よ!あなたの信徒の中で最も大胆な者は、あなたのヴェールをかかげて「死」の像に直面してしまったのだろうか?」

ネルヴァル『暁の女王と精霊の王の物語』

シバの女王がソロモン王に会いに行って知恵を試す話がありますが、それをモチーフにしています。しかし旧約聖書とはかなり違った話になっています。オカルトです。読み手を選びます。私は多分、常人よりムー的な怪しい本は読んでるので、この本がただ個人的な思いつきを並べたトンデモ本ではないという事はわかりますし、神秘主義的な著作でここまで上質なものは稀だと思います。本当に、この手の作品は殆ど本物には出くわしません。これと比べたら、スウェーデンボルグクロウリーも全然大した事ないですよ。

ヘッセの『デミアン』に、グノーシスの神アプラクサスが出てきましたし、カインの印は強者の証だみたいな事が書いてあったと記憶しています。そういう異端的な思想に理解があると取っつき易いかもです。この本でも、カインの末裔は特別な力を持った存在として現れます。アベルの子孫は土から作られて嫉妬深い神に屈従しているのに対し、カインの子孫は火から作られて真の知恵を持ち、自らが神のような創造力を有し、地下のマグマをも意のままに操ります。カインの子は、アベルの末裔の欺瞞を次第に暴いて行きます。

この世界の秩序や権力により弱者は犠牲になり、しばしば狡猾さは誠実さに勝利します。その中で真の知恵と気高さと美を象徴するうら若き女性として、シバの女王が現れます。彼女はネルヴァルの描く永遠の女性であり、何としても守られねばならない存在です。女王は果たして敵の謀略に落ちてしまうのか。聖書のストーリーが前情報であるだけに、え、本当にこうなるの!?と最後まで気の抜けない展開でした。

私としては本当に面白く読ませていただきました。でも多分少数派です。ここまでネルヴァルをわかってしまう訳者の中村真一郎ヤバいんじゃないかと思います。素晴らしい作品ですが、普通の人にはお勧めしません。意味不明で終わると思います。

『心理療法の光と影』

名前の長いユング派の人が書いた本です。読んだ方がいいと勧められて読みましたが、面白かった、というか恐ろしかったかも。

ここで主に取り上げられているのは医療従事者や教師などの援助者です。言うまでもなく本来は人を助けるための職業なのですが、それなのに彼らが助けを求めている人を逆に苦しめることは良く起こります。それは何故だろうかというのがこの本のテーマです。また援助職でなくても、親や人を助ける立場にある人は皆、陥りかねない問題と言えます。

著者によると、援助を与える者と受ける者の間には力の差があり、前者には後者を支配して自分のために利用したいという欲求が起こるそうです。自分は完璧な人間であろうとし、相手には自分の影を背負わせて、永遠に未熟な状態に留めて依存させようとする。当然、本来の援助は妨げられてしまいます。これを読むと今まで自分の会った学校の先生なんかを思い出しもしますが、自分自身、人に手を貸すつもりでかなり余計な事をして来たかもしれません。

しかし、日本人はスイス人ほど影を恐れませんし、ここに書かれているように、善意から何かをすれば必ず無意識の中では同量の悪意が生まれるというのは本当だろうかとは思います。 日本人はそこまで善悪二元論ではないことでしょう。とは言え「あなたのため」と言いながら、その実利己心から行動しているというのは世界中どこでもよくある事です。どうしたらそれを防げるのでしょうか。著者は、医療従事者は自分の中にも患者がいる事を忘れてはいけないと言います。教師の中にも本来子どもがいます。一方的に援助を与える側になり、自分には相手にあるような未熟さや弱さなどないと思いはじめると危険です。医者や教師であっても、他の人よりそう物がわかっているわけでもありません。自分たちにも弱さがあると自覚し、援助される相手や親しい人との関わり合いで、自分も治療や成長を経験していく事が大切だという事です。

私は相手に何かをしてあげようと思った時、利己的な意味ではなく、それが自分のためになるかどうかには気をつけようと思っています。自分にとって何もいい事がなくても立場上やらなくてはならないような場合は多いですが、それは多分相手のためにもなってないんでしょうね。

中原中也『ヂェラルド・ド・ネルヴァル』

先日、中也の自筆原稿を見る機会があったのですが、中にネルヴァルの『黒点』がありました。私はランボーは正直あんまりわかんないんですけど、ネルヴァルいいなと思って少し読んでみることにしました。幸い、中也のネルヴァル訳は青空文庫にありました。『黒点』など4編が訳されています。

そのうち『アルテミス』については原文とも照らし合わせてみました。細かい文法は「?」のところもありますし、専門の中村真一郎訳の方がやっぱり上手いかもしれませんけど、こうやって中也が読んだということが何より嬉しいです。

ネルヴァルは発狂したと書いてありますが、発狂と言っても原因は色々なので、私としては何でかが気になります。今まで調べたところでは、統合失調っぽいかなとは思います。他の作品もちらちら読みはじめていますが、恐らくかなり優しい人なんじゃないかという気がします。(統合失調は基本、善人しか罹らないという認識です)ゴーチェやデュマも彼とは仲良くして気にかけていたようです。

ネルヴァルが発狂し首を吊ったと書いた後、中也はこうつづけます。「笑つちや不可ねえ、狂人といふものは恐らく諸君のように結構な適従性を持つて生まれなかつたのだ」これは中也自身にも言えることでしょう。彼も息子の死により鬱病を発症し、快復しないまま世を去りました。当時は薬もないですし、致し方ありません。しかし、以前は私も何でも適従して生きて行くのが良い事だと思っていましたが、最近は敢えて適従しない生き方もあるかもしれないという気がします。人生は意味や理由で説明できないことの方が多いですからね。