hanekakusiのブログ

『猫とかわうそ』http://hanekakusi.web.fc2.com製作日記です。読書の感想も書いています。

『伊勢物語』

古典文法は得意ではないですが、読んでおかないと後代の作品が理解出来ない時もあります。苦手分野ではありますが、がんばって勉強しようかと思っています。

伊勢物語』は教科書にも載っていましたが、子どもの頃には正直あまりわかっていませんでした。以前この本に地名で出て来る深草には住んでいたのですが。京都人は今でも、本心をそのまま語るということは他府県の人より少ない気がします。『伊勢物語』の中の歌も、必ずしも文字通りのことを意図して詠まれているわけではないようだということが最近わかってきました。「沖つしら波たつた山」のように本心を詠ったものもありますが。今の京都人も、同じ言葉を言ったとしても、本心の時もあれば社交辞令の時もあり、打算の時もあり、正反対の意味のことを当てつけたりと色々です。同じ京都人であればニュアンスで何となく真意がわかりますが、他の文化圏の人には難解で、底意地が悪いと言われるところです。平安の人たちが和歌を詠んだ目的も色々で、歌競べで技巧を競ったものもあれば、形式的なものもあり、真心がないのを上手い言葉で取り繕ったものもあることでしょう。恋の駆け引きだって真剣なものもあれば腐れ縁もあるし、ただ単に手放したくない金づるの時もありますよね。出家して政治から退いた皇族から「さびしい」と言われた時とか、内心は「めんどい」というところもあるでしょうね。「めんどい」と言うわけにはいきませんけど、本音としてはもっと有力な人と仲良くしたいですよ。

平安貴族たちが「をかし」や「あはれ」を求めたのは、根本にこの世は「憂き世」だという意識があったからだと思います。源融がわざわざ海水を取り寄せて庭に海を作ったのも、都には海がなかったからです。本来つらいだけのつまらない人生を、少しでも美しく生きようとしたのではないでしょうか。憂きものの中でも人間関係は最たるものです。感情を直接的に表現する人は『伊勢物語』の中では軽蔑されていますが、気持ちをそのままさらけ出して上手く行くほど人は簡単ではないですし、当時は歌という架け橋が円滑な人間関係に重要な役割を果たしたのでしょう。こういうのを下心と言う人もいますが、私は違うと思います。美意識です。