hanekakusiのブログ

『猫とかわうそ』http://hanekakusi.web.fc2.com製作日記です。読書の感想も書いています。

『イリアス』

イリアス』は冒頭にあるように、アキレウスの「怒り」の物語です。では、アキレウスの怒りとは何であり、何故ホメロスはそれを詠い、現代でも名作と言われるのでしょう。

アキレウスが怒ったきっかけは、自分が戦利品として得た女のブリセイスをアガメムノンに取られたからです。名誉を傷つけられて怒ったアキレウスは戦場から身を引き、自分がいないせいでギリシア軍が苦境に陥るよう母の女神に頼み込みました。そしてその願いは叶えられて行く事になります。

ここで思い至るのは、そもそもトロイア戦争は美女ヘレネを略奪された怒りが原因だということです。ギリシア軍の総大将アガメムノンが女を奪って怒りを買うというのは明らかに自己矛盾なのです。結果的にはパトロクロスの死によりアキレウスアガメムノンへの怒りを収めます。ここで「たかが女一人のために」怒りをぶつけ合ったことをアガメムノンは悔いますが、やはりヘレネが戦争の原因とすると、これを言ったら戦う意義を失ってしまいかねません。怒りについて、アキレウス自身はこう述べています。「ああ、争いなど神界からも人の世からもなくなればよいのに、そして怒りも」

ところでパトロクロスは『イリアス』の中で、自らの怒りのために戦ったわけではない特異な人物と言えるでしょう。彼の死にブリセイスは涙します。アキレウスは彼女をただの正当な戦利品としか思っていなかったでしょうが、パトロクロスは敗者の苦悩についても理解していたことがうかがえます。一方アキレウスは「非情」と言われる人物であり、憐れみの心は持ち合わせていません。自分も多くの人間を殺し略奪を繰り返しているのに、自分の受ける痛みにしか心は動きません。そもそもパトロクロスの死はアキレウスに原因があると言ってもいいのですが。今アキレウスの怒りは戦友を殺したヘクトルへと向かい、トロイ人たちを容赦なく虐殺していきます。

ヘクトルは自分が死すべき人間ということを忘れ思い上がっているとゼウスは嘆きます。彼が半神アキレウスの武具を身につけた時点で死亡フラグが立ったわけです。ギリシア神話のお約束通り、神のごとくなろうとした人間には破滅が待っています。ヘクトルに対し、自分の死が近い事を知っているアキレウスの方が洞察が深いと言えます。アキレウスヘクトルの死体にまで無益に怒りをぶつけつづけますが、プリアモスが身請けに来たことで彼は気付きます。「なんと気の毒な、あなたも心中にさまざまな不幸を忍んでこられたのだな」他者の苦悩を目の当たりにし、ここでやっとアキレウスはすべての怒りを収めます。自らの死を前に、新たな理解へと至ったのです。この世のすべての人間は、神々によって苦しみながら生きるよう定められているのだと彼は知りました。パトロクロスヘクトルに討たれたのも、アキレウスヘクトルを殺したことも、すべてゼウスの計画どおりなのです。神々は自分たちは何の苦しみも知らないのですが。

神々ですら怒りに任せて互いに争い合ってばかりだというのに、アキレウスはこうして怒りを超えたところへ至りました。しかしトロイに対してまでも怒りが消えた今、彼の戦いの意義も薄れることでしょう。そして間もなく彼も戦場に果てる運命なのです。