上田 秋成『雨月物語』
江戸時代に日本で最初に書かれた小説のひとつです。中国の白話小説をもとに日本を舞台に翻案した話です。全部で九話の短編から成ります。内容的には今でいう怪奇小説ですね。当時のインテリ向けに書かれた作品なので、私のように知識のない者には解説なしには読めませんでした。しかし最初の数話を読んでいるうちは、ただただ難しくて、ふ~んという感じだったんですけど、気がついてみればこの世界にすっかりはまり込んでいました。物語の主人公たちが、我知らぬ間に異界に迷い込んだようにです。
「蛇性の淫」とか蛇女に取り憑かれる話というあらすじだけでは全然期待していませんでしたが、とても面白かったです。「道明寺」のシナリオをなぞるかと思いきや、ですね。蛇女は女という性の二面性を有していて、主人公を取り殺そうという暗い面だけでなく、養い育む顔もあると言っていいかもしれません。真女子という蛇女の名前が好きです。何しろ真の女ですからね。
江戸はいい時代だったのかもしれませんが、現世主義だな~と思いました。謡曲なんかで亡霊が登場したらお経をあげて成仏させるものですが、「白峰」の西行法師は経文のひとつも唱えず亡霊は結局祟りっぱなしです。「菊花の約」でも友の弔いをしに行ったはずが、仇討ちだけして終わってしまっています。亡霊たちのこの世への執着は消えることはありません。またいつでも化けて出てきていいよ、ということなんでしょうか。「夢応の鯉魚」は荘子の「魚の楽しみ」とか「鯤と鵬」の話に通じるものがあって好きでしたが、絵に描いた鯉が遊ぶのはやっぱり現世の水の中なんですね。
全編にわたり、静謐な幻想世界に浸る喜びを感じる作品ですが、どの話も読後には何故か一抹の寂しさが残ります。彼岸と此岸の世界があるとして、通常人は此岸だけで生きています。だけど人によっては両者の境界に修復しがたい亀裂がある場合があって、意識を此岸につなぎ留める寄る辺が脆いと、簡単に向こう岸をさまよってしまいます。秋成もきっとそういう人だったんじゃないかという気がします。
コウルリッジ詩集
ワーズワースと並んで有名なイギリス・ロマン派の詩人です。
この人の詩は本当に韻律が綺麗なんです。わけがわからないくらい上手い。それなのに全然自然で、作為的な感じが全くありません。ここまで音を自在に扱う詩人を、私は他に知りません。
有名なのは幻想詩篇で、私は個人的には「クリスタベル」が好きです。しかし残念ながら未完です。ここから先、面白くなりそうなんですけどね。それにしても「クブラ・カーン」も中途半端だし、何だか粘りとか忍耐がないと言うか。まあ「クブラ・カーン」は阿片による一時的な幻覚だったのだし、その幻覚が去ってしまったのだから仕方がないとも言えます。明日はもっと美しい歌を歌おうと思っても、その明日は来ないというわけです。ですが、それでも苦悩して苦悩して言葉を絞り出してなんぼではないか、という気もします。才能に恵まれ過ぎたせいで、足掻く事を知らなかったのかもしれません。
詩を読む限り、彼が純粋な心の持ち主だったことは伺えます。しかし一方、非常に依存心が強く、自分を保護してくれる父親や母親のような人を常に必要としていたようです。とはいえ親代りをできる人がいるわけがなく、彼はいつも孤独でした。彼の恋愛詩篇を読むにつけても、何だか恋に憧れる少年が書いたみたいで、いつまでも恋愛に甘い夢しか抱いていなかったように見えます。これでは夫婦仲が悪くなったのも無理がないかもしれません。私は他人には厳しいですから敢えて言いますと、彼は大事なところで甘えが出てしまい、人生の本来の義務から逃げてしまう癖があったのではないかという感じがします。(ただし恋人がいても妻を裏切ることはしなかったそうですし、強固な道徳観のある人でもありました)鎮痛剤として用いていた阿片に溺れて廃人寸前にもなり、次第に詩作からも遠ざかってしまいます。もし彼のように才能豊かな人が、もっと創作に打ち込むことが出来たらと思うととても残念です。
『ガルガンチュワ・パンタグリュエル物語』
16世紀フランスの人文主義者ラブレーの作品です。ガルガンチュワとパンタグリュエルという巨人親子が一応の主人公で、新教を擁護する立場から時代を風刺しています。取り留めもなく長い物語ですが、最後の「五の書」は別人の手による偽書とされています。
「一の書」と「二の書」を読んでいる間は、正直あまり面白いとは思いませんでした。ガルガンチュワ親子は巨人ではありますが、言ってしまえば体がでかいだけの人間で、この時点では特に立派なところはありません。彼らは肥大した自我や自己愛を思わせます。欲望のままに大量の牛やワインを喰らい、自分以外の小さな人間は容易く大量殺戮します。巨体ゆえに何でも思いのままです。この辺りを読んでいると、どうしても弱者を笑い者にするような話が多く、嫌な感じもしました。確かに自分のワインを守るため血みどろの戦いを繰り広げたジョン修道士と、彼の作った新しい自由な教会の話なんかは面白い部分だとは思います。しかし自分の父親の訴訟相手を戦争の敵に見立ててボコボコにするという筋書きは、幾分安易な気もします。
とは言え、エラスムスが『痴愚神礼讃』に「人間は神の子羊だが、羊ほど馬鹿な生き物はいない」と書いているように、当時の人文主義者は人間の卑小さを十分自覚していました。だからこそ、巨人親子の身勝手な振る舞いが笑えたのでしょう。それに対して、現代は自我が肥大しワガママになっている人が多いので、あまり笑えないのでしょう。
そんなこんなで読み進めて「三の書」まで行ったのですが、私はその時やっと面白いと感じました。これまでのような笑いのナンセンスさは減じてしまったかもしれませんが、思想的な深みはより感じられるようになりました。この巻から、巨人パンタグリュエルが人間サイズに縮小します。しかし内面的には哲人的な、善なる王になっています。彼の従者で実質的な主役であるパニュリュジュは以前まで超人的な働きをし、巨大な股袋をつけてそこから(勝新太郎のように)色々物を出し入れしたりしていたのですが、そんなトレードマークの股袋もつけなくなり、より道化的な役割に転じました。ここではそのパニュリュジュの結婚問題が主題で、結婚すべきか、でも結婚したら絶対女房を寝取られるからそれは嫌だ、という議論を延々と繰り返します。はっきり言って私にとって彼が結婚しようがしまいがどうでもいいし、パンタグリュエルの言ったように、なら男と結婚しときゃいいじゃないかという意見です。でも巧みに風刺や教訓を織り込みながら、荒唐無稽な議論をリズムよく繰り広げて行く展開は、読書家にとっては読んでて快感ですね。衒学的過ぎはしますが、並々ならぬ知性を感じさせます。これはちょっと他の人には真似出来ません。
「四の書」になると、結婚問題が解決できなかった一同は航海に出かけ、ソーセージ人間の国など架空の国々を探検します。この頃既にラブレーは新教徒への迫害を逃れて国外に脱出していたようで、火焙りにするならしろと豪語し、旧教への批判をよりあからさまにします。ラブレーの友人にも火刑にされた人がいたそうで、大変な時代でした。残念ながら航海の途上で話は途切れてしまい、偽書の「五の書」で帰還して来る事になります。
この本は現代日本人には決して読み易くはありませんので、読書初心者にはお勧めしません。本が嫌いになりますから。でも読んでいると、何処かで見かけた表現を散見します。それは後世の多くの作家がこの作品を読み、影響を受けたからです。挑戦してみる価値はあると思いますよ。
『マッチ売りの少女』
私は個人的にこの作品はとても好きです。何回読んでもボロボロ泣きます。それは多分私がおかしいんでしょうけど。
これは誰もが知っている作品ではあるものの、アンデルセンの原作を読んだ人は以外と少ないようです。そのため多くの人は、これは不幸な少女の話だと記憶していることと思います。しかしアンデルセンの意図したものは恐らくそうではありません。これはもしかしたら、幸福な少女の話と言ってもいいかもしれません。
少女は凍えても、暖かい暖炉を思い浮かべて温まることができます。一人きりでも、優しい家族と楽しいクリスマスを過ごす事ができます。死んで行くのにも、恐怖などまったく感じません。大好きなおばあさんと綺麗な星空へ昇って行けるのですから。この時少女は誰よりも幸福なのです。
明くる朝、人々は少女の遺体を見つけて憐れみを抱きます。ですが少女は微笑みながら死んでいます。そしてどんなに彼女が幸せだったか、わかる人は誰もいませんでした。
私は今まで、色々な物語を読む事ができてとても幸せに思います。どんなにつらい時にも、物語は私を幸せにしてくれ、時には星空の彼方へも連れて行ってくれます。それもこれまで色々な人がマッチを擦って、灯し火を残してくれたからなんですね。元々はきっと、書き手自身が暖まりたかったのでしょうね。