hanekakusiのブログ

『猫とかわうそ』http://hanekakusi.web.fc2.com製作日記です。読書の感想も書いています。

今後の予定

今年に入ってあまりホームページの更新が出来ていませんが、8月から夏期は少し時間に余裕ができるので、集中してやろうかと思います。『サイスの弟子』は夏の間に終わらせたいと思っています。可能なら、エマーソンの短い作品などにも取り組みたいです。訪問していただいている方は、更新が遅くてすみません。

『マージェリー・ケンプの書』

現存するイギリス最古の自伝で、中世に書かれました。マージェリーはごく普通の良家の女性でしたが、ある日神の啓示を受けました。そして罪を悔い改め、キリストの花嫁となるべく日々を過ごそうと誓います。

マージェリーは神と対話し、キリストの受難にまつわる鮮明なヴィジョンを見ます。そして神が訪れる度、日に何度も大声で泣き叫びました。泣き過ぎて消耗し痩せ衰える程でした。マージェリーの号泣は街で評判になり、人々からは嘘泣きの偽善者だと攻撃され、異端審問も受けました。彼女は神の慰めの言葉を聞きながらそれに耐えつつ、自らに厳しい苦行を課しました。エルサレムやローマへの過酷な巡礼もしました。14人の子供を産んだという彼女ですが、貞潔の誓いを立てるべく夫に肉体関係を絶ってくれるよう説得し、夫もついにそれを受け入れます。

もし現代にマージェリーがいたら、恐らく精神病と診断されたことでしょう。視界に白い斑点が見える、とか典型的ではあります。天使が側にいる証という事になっていますが。しかし、私は何も信仰心は無いですがちょっとした神秘体験は経験しているので、彼女が嘘を言っていないとわかります。(そういう経験の事は人には話しません。現代では中世とは別の危険がありますから)ただ彼女に悪意はないというのと、書いてある事がすべて事実だというのとは別問題です。マージェリーは何度も未来を正確に予言しますし、息子の病気を治し改心させたり奇跡も起こします。こういった事が実際起こることもありましょうが、思い込みがないとは言いきれません。彼女は行く先々で常に悪口を言われますが、中には妄想も入っているかもしれません。それはわかりません。

神は、彼女を助けた人は来世で報われ、攻撃した人は罰せられると言っています。ローマで彼女を非難し続けた修道士は、神も好きになれないと語っています。こういった言葉はマージェリーにとっては真実ですが、他の人にとってはどうだろうかと思います。また神は彼女を誰よりいちばん愛していると言います。しかしそれは、彼女に固有の体験ではないことでしょう。神は誰もにとって唯一無二の存在であり得ます。場合によっては神は彼女の敵の修道士に語りかけ、お前をいちばん愛している、マージェリーの事は嫌いだと言ってもおかしくありません。

あと、気になったのが夫との別居です。彼女は大体いつも神の啓示に従って行動していますが、別居ついては、一緒にいると姦淫していると世間に疑われるからという消極的な理由からでした。世間から攻撃されるのを自らの喜びともしていた彼女が、ここでは何故か言い訳がましいようにも感じました。ところで私は、この夫はすごい人だと思います。一度、恥ずかしさの余り他人のふりをしてマージェリーを置いて帰った事はありますが、彼女がある意味自分を捨ててキリストの花嫁となる事を許しましたし、度々問題を起こす彼女を庇い、遠方への巡礼も叶えました。普通無理ですよ。こんな理解ある夫なのですが、最後は認知症になってマージェリーが苦労して介護したと書かれていました。こういう問題は中世からあったようですね。

色々ケチをつけてしまったようですが、この本に見られる神秘体験は深いもので、非常に価値のあるテキストなのではないかと思います。とくにマージェリーが神との対話を重ねるにつれ、深みを増して行くのは印象的でした。彼女はあくまで平信徒であり、何か偉業を成したわけでもありません。しかし自らが涙を流し祈る事で多くの人が救われると神に言われ、それを信じていました。現に、彼女の周りの人々の中には影響を受けて信仰を深めた人も多くいました。とは言えいくら祈っても、具体的に人を助ける行動をしなくては意味がないと思う人もいるかもしれません。ユングは個性化を行う事で全世界を救い得ると書いていましたが、実際私は半信半疑でした。しかしこの本を読んで、心の中の祈りが世界を変える事もあるのかと改めて考えさせられました。

『カンタベリー物語』

カンタベリー大聖堂まで巡礼する4日間、旅の一行が一人ずつ何か話をして行くという物語です。

最初の「総序の歌」では登場人物が一人一人紹介されていて面白いです。当時のあらゆる階級の人物が登場し、さながら社会の縮図です。騎士や学僧のように理想化された完全な人間もいれば、修道士や免罪符売りのような偽善者、粉屋や料理人のような下賤の俗物もいます。そして、それぞれの人がそれぞれの立場に丁度合った語り口で、ふさわしい内容の物語を展開して行きます。話の内容は多くが色恋や結婚に関するもので、騎士の物語のように高潔な愛もあれば、粉屋の話のように妻を寝取られただの下賤な話もあります。話の一つ一つを取ってみれば酷い話や極論も多いのですが、全体として見れば、一方がやり込められたらもう一方が仕返ししたりとバランスの取れた内容になっている事に気付きます。

オックスフォードの学僧は、貞節な妻グリセルダの受難について語りますが、個人的にはこの話がいちばん印象に残りました。女性には非常に人気のない作品ですが、これも別の「バースの女房の話」と対になっていて、そこでは女性が男性を支配すべしという理念が語られているのです。

グリセルダは元々賎民でしたが、領主のワルテルに見初められて結婚します。その際グリセルダはすべての自由を失い、彼女が泣くも笑うもすべてワルテルの支配下に置かれる事を誓わされます。夫は彼女の愛を試すため、産まれた子供を殺すと見せかけて次々取り上げます。それでも彼女が動じないのを見て取ると、別の身分の高い女と結婚する事にしたと言って彼女を追い出し、さらには式の準備を手伝わせます。そのような境遇に至ってもグリセルダが従順でありつづけるのを見て、夫はついに真実を打ち明けます。花嫁として連れて来られたのは成長した彼女自身の娘だったのです。そしてグリセルダは妻としての地位を取り戻し、幸せに暮らしました。

ここで作者は、この作品を紹介したのは女性にグリセルダのようになれと言う為ではなく、人生の試練に対して人はこのようにあるべきだと示したかったからだと書いています。女性に対する言い逃れとしてこう書いただけかもしれませんが、私はもっともだと思いました。何故グリセルダはかくも忍耐強く生きられたのでしょう。考えてみれば、彼女は結婚する前から領主である夫の支配下にあり、その中で貧しい生活を強いられていました。そんなグリセルダにとって夫の試練は過酷だったでしょうか。昔から、権力者が下賤の女に手を付けて飽きたら捨てるという事は当たり前、その際子供は一族の血を汚さぬためと殺されるのも当然でした。現代でも手切れ金を渡して・・ということはあるくらいですから。グリセルダははじめから全て覚悟の上だったと思います。貧しさの内には人生のありとあらゆる苦悩があります。それを身を以て知っていたグリセルダにとって、こんな試練が何だったでしょう。夫が想像の限りを尽くした最大の苦難にも、その発想の乏しさに、この程度ですかと笑いたい気分だったかもしれません。私事ですが、極貧の中で少年時代を送ったアルベール・カミュの「希望を持ってはならない」という言葉を読んだ時は、かっこいいと思って憧れました。私もそんな風に生きたいものです。

巡礼者たちの物語は、次第にふざけた物から殉教の話など宗教的なものが多くなり、最後は「悔い改め」の話が長々とあって終わります。チョーサー自身も悔い改めて、『カンタベリー物語』の中の良くない話もなかった事にして欲しいと懺悔しています。作者の死が近かったようです。旅の一行には偽善者や悪人もいますが、そういう人でも巡礼に加わったというのは、心の中では救済を求めていたのでしょう。巡礼者たちは社会の縮図です。チョーサーはこの物語の中でありとあらゆる人々を包み込み、救いの道へ誘おうと願ったのかもしれません。

『The Tale of Peter Rabbit』

ビアトリクス・ポターの童話集を読みました。

初めて読んで、本当に挿絵が可愛いですし、文章も軽快で楽しいお話ばかりでした。でも私は、この物語には結構シビアな弱肉強食の世界観があるように感じました。先ず、ピーター・ラビットの父親の末期はパイにされてしまったという事実に衝撃を受けました。この世界の動物たちは服も着て二本足で立って文化的な生活をしているのに、すぐに近所の住人をパイやプディングに入れようとするのです。

パイを食べて具合が悪くなった犬に、猫が鳥の医者を呼んで来る事にします。その時「あの先生は元々パイみたいなものだから、うってつけだわ」という台詞がさらっと出て来ます。ネズミたちはある話では主人公になりますが、別の話ではパイの具材です。場合によっては豚が肉を焼いてたりします。

これは何なのだろうかと考えてみて、もしかしたら動物を食べる文化が日本より豊かなのかもしれないと思いました。動物を大切に育ててそれを食べるという事をずっとしてきた国ですし、猫がネズミをパイにするのもそれと同じくらいまっとうな事です。以前イギリスの学者が、伝統的な農家の生活を再現し実際に生活してみるというテレビ番組がありました。それで豚を子豚から育てて調理したのですが、料理を味わいながら、皿の中に豚の目玉を見つけて学者はにっこりしました。「僕はこの目に見つめられて幾晩も過ごしたんだよ」・・・私にはちょっと真似できないかもしれません。まあ我々はイルカやクジラは平気で食べますけどね。

『古代ギリシア・ローマの料理とレシピ』

古代ギリシア・ローマの料理を現代の食卓に再現してみようという本です。『イリアス』に出てきた料理やガレノスのパンケーキなど、興味を引かれるものがたくさん載っています。あくまで現代で手に入る材料にしてあるので『テルマエロマエ』に出てきたカタツムリ料理のようなものは載っていません。あと、写真もなく文章ばかりなので上級者向けです。田舎のスーパーでは手に入らない材料も多く、作るには自分なりのアレンジが出来る腕が必要です。それから、再現しているのがイギリス人で(ディスってすみません。イングリッシュ・ブレックファーストは美味しいです)多分歴史の専門家で料理の専門家ではないので、結構大雑把です。そのまま作ってもそこまで美味しくならないと思います。工夫が必要です。

載っているレシピは意外と現代の洋食と変わりません。違うところはガルムという魚醤を使うこと(現代ではほとんど製造されていないので私はナンプラーで代用しました)、砂糖がないのでハチミツで甘みをつけること、コリアンダーなど大量のハーブを使うことです。あと、料理の手順が少し違うところがあって、現代では旨味を出すため煮込む前に香味野菜は炒めて肉は焼き目をつけるのが普通ですが、古代のレシピではそれはしていなかったです。どこまで再現にこだわるかですが、多分先に炒めた方が美味しいんじゃないかと私は思います。

私は魚を焼いた料理と豚肉とリンゴを煮た料理を作りましたが、意外と魚醤がいい味を出していました。魚醤はアジア料理でしか使った事がありませんでしたが、ちゃんと洋風の味付けにもマッチしてくれました。醤油より合いますよ。今後の料理の隠し味に使おうと思います。

「生まれてすみません」

しばらくSDSが50台後半なのに、毎日雨です。このままだと病院送りなので何か元気になる方法はないかと色々調べていたら、六方拝をしろとかいうお節介な話がありまして、親、家族、恩師、友達、空と大地に感謝の祈りを捧げると心穏かになるのだそうです。未熟者の私には感謝は無理です。ネガティヴな事以外思い浮かばず、謝罪が精一杯です。まったくもって「生まれてすみません」ですよ。だけどこんな風にして謝られる方も迷惑な話です。

しかしわからないのですが、太宰治は誰に向かって「生まれてすみません」と言ったのでしょう。元々の宛先は察するに特定の個人だったと思うのですが、多分本人もわからなくなっています。一般的に文章というのは読者に向けて書かれているので、読者全員に対して謝ってるとも受け取れます。とは言え、私は別に太宰に謝られる筋合いはありません。私だけでなく多くの読者は、この謝罪文が自分に向けられているのだと受け止めて戸惑う事はないでしょう。謝るという事は、相手に何かを許して欲しいんでしょうけれど、これを読んで太宰を実際許してあげた読者がどれだけいるかは知りません。

もしも私のような冷たい読者ではなく、誰か鷹揚な人がそれを読んだら「ふむふむ、太宰君もなかなか反省しているようだね。可哀想だし大目に見てやろうじゃないか」という大らかな気分になりでもするんでしょうか。わかりません。太宰自身、どういう返答を望んだのでしょう。

誰でも日常生活で、いなくなっていいよ、というメッセージは容易に受け取る機会があります。だけど生きていていいよ、という許可は一体誰がくれるのでしょう。これ難しい謎です。わかっていれば太宰もその人に個人的に手紙を書けば済んだ事です。しかしそもそも、許可を与えたり拒んだりして人の命を左右する資格が誰かにあるのでしょうか。

前回記事の補足

前回私はバシュラールの「青い花は赤いのだ」という意見にいちゃもんをつけたのですが、重要な事を考え過ごしていました。それはバシュラールの絶筆が、火の鳥(フェニックス)に関するものだという事です。手塚治虫も『火の鳥』が遺作ですし、ブコウスキーも遺作の『パルプ』では赤いスズメを探していました。火の鳥、赤い鳥というのはある人々にとっては青い花に相当するのです。

ダンテ『神曲』の最後には天使の作る白い大きな光のバラが出て来ます。北原白秋は白牡丹でした。サン・テグジュペリは赤いバラです。他にもバリエーションは多々あるでしょう。要は、バシュラールにとっての青い花は、確かに赤かったのです。色々言って失礼しました。