hanekakusiのブログ

『猫とかわうそ』http://hanekakusi.web.fc2.com製作日記です。読書の感想も書いています。

三島由紀夫『サド侯爵夫人』

やっと今年1冊目の読書ができました。やれやれです。

近代戯曲屈指の傑作と名高い『サド侯爵夫人』ですが、私は正直あまりピンと来ませんでした。私はサドが好きですし、自分のイメージするサドと作中のサドが違ったのがいちばんの原因でしょう。

私は三島由紀夫に関しては昔読んだ『仮面の告白』で知っているだけですが、多分サドとは生い立ちもキャラクターも余り似ていないような気がします。サドは本当の意味で無神論者ですから、三島の言うような背徳の美学を追求したわけでもないし「天国の裏階段」にも興味なかったんじゃないでしょうか。サドの目指したのは芸術の創造よりも真実の告発なんじゃないかと勝手に思っています。少なくとも、サドは体をムキムキに鍛えてヌード写真集を撮る趣味はない気がします。

サド侯爵夫人ルネについても、別の所で資料を読んだ時には、いかにもDVを誘発しそうな女性、似た者夫婦という印象を受けました。三島は、献身的に夫の出獄に尽力したルネが夫が帰って来た途端に離婚した、その理由は何故かという疑問から始まってこの戯曲を書き上げたそうです。まあでも、現実には不実な夫に尽くしつづけた妻が、相手が自分の元にせっかく戻ったのに別れてしまうというような事例は決して珍しくはありません。一種の復讐であったりとか、幾つかの説明ができると思います。

しかし、この戯曲はあくまで、史実はともかく三島の作り上げた一世界として鑑賞すべきでしょう。作中に登場するのは6人の女性で、男性は出て来ません。貴族階級の優美な女性たちが、卑猥な言葉をあれこれと上品な口ぶりで語り合う、当時としてはかなりセンセーショナルな作品だったようです。クライマックスのルネの台詞、サドからは眩い聖なる光が溢れ出しているという、あれは圧巻です。私は個人的には、話の本題とは関係ない部分かもしれませんが、ルネの「女が男にだまされることなんぞ、一度だって起りはいたしません」という台詞が何気にすごいと思います。ルネは最初から、サドの本性を何もかもわかった上で尽くしていたんですね。さらっと出て来ますけど、これが物事の本質なんでしょうかね。

『王書(シャー・ナーメ)』

10世紀に書かれたイランの英雄叙事詩です。原著は50代の王に渡り記述した大作らしいですが、日本語に翻訳されているのは一部分だけです。私は東洋文庫のを読みました。古来の伝承を集めたものみたいで、11世紀には『ルバイヤート』が書かれている事を思うとかなり内容的に素朴な印象を受けました。似ているのは日本の『古事記』だと思います。立ち位置的にも多分近いです。イラン人の民族意識の拠り所みたいな感じです。イランの軍歌には『シャー・ナーメ』由来のものが多いそうです。イラン人の愛国心を高揚させるとか。この話ではイラン人は善に属し、アフラ=マズダの側にいます。それに対しトルコ人は悪しきアーリマンの権化です。そこで英雄たちは善と悪の戦いを繰り広げるわけです。

私が読んだのは、主に英雄ロスタムにまつわる物語です。この人は生まれた時から1歳児くらいのサイズで、ラオウみたいにデカくなって黒王号のような馬に乗っていました。ムチャクチャ強くて築いた屍の山は月まで届いたとか。こえー。ちなみに竜退治もしています。この最強の勇士ロスタムなのですが、栄光の最中にイランに侵攻して来たソホラーブを、息子とは知らずに戦って殺してしまいます。英雄が年若い息子を殺す話は世界中にありはしますが、しかしこの話は息子の存在を忘れていたクー・フーリンとは違い、ロスタムも我が子を気にかけ何度も相手が息子でないか確認しています。ソホラーブの方も父親に会いたがっていて必死にさがしているのに、目の前の敵が父だとは最期まで気付かない。このあり得ないほどのすれ違いに、読む者は否応なしに神意とか宿命とかいうものを感じさせられます。この息子を迫害して殺してしまう逆オイディプス現象は、本書に一貫して起こるテーマです。ロスタムは更に、王に嫌われた無垢な王子も殺さねばならない事になり、次第に命運を失って死を迎えます。

言うまでもなく、息子は自分の後を担う存在ですが、同時に自分の地位を脅かす存在でもあります。『金枝篇』の ように老齢の者が若者に殺されて代替わりするのではなく、老齢の者が若者の芽を摘み取って、それによって子孫は途絶え自分も殺してしまうというのは皮肉な結末です。この「子殺し」のテーマがどれだけイラン文化に普遍的かはわからないですが、そう言えばキュロス大王も親に殺されかけてましたね。しかし、この息子を持つ父親のジレンマは恐らく世界共通のテーマなのでしょう。

更新しました

ホームページをやっと更新できました。

今年は私にとって内面的にはかなり色々変化がありましたが、外面的な成果の乏しい年でした。翻訳もあまりはかどりませんでした。

暇なだけが取り柄の私が次第に多忙になって来たのは残念ではありますが、致し方ありません。これからもなるべく時間を取って頑張ります。

ヘロドトス『歴史』

ペルシャの王キュロス、カンビュセス、ダレイオス、クセルクセスの4代を軸とする歴史書で、とくにペルシャ戦争の記述がメインになっています。後世の本で引用されて見覚えのあるエピソードが沢山出てきます。

私の感想としては、何と言ってもキュロス大王がかっこよかったという事に尽きます。そのせいで一巻で死んだ後やる気がなくなって、読了に随分時間が掛かりました。私はダレイオスなんて王とは認めませんが、クセルクセスは良かったですね。波が荒れたからってヘレスポントス海峡を鞭打たせたり(烙印も押したかったけど流石に無理だったようです)かと思えばその数ページ後では人間の命の儚さを思って涙したり、いい王様っぷりですね。ペルシャ軍は数百万いたらしいですけど(絶対盛ってる。四国の人口より多いし)ヘロドトスも、それだけの軍勢を率いるに足る者は容姿の端麗さと堂々たる体躯からしてもクセルクセス以外にはなかったと讃えています。アテナイというのは言わずと知れた民主主義国家で、自由な国が独裁国家に打ち勝ったという話が現代でも美談として語られます。しかし私も決して王党派ではございませんが、やっぱり王様ってかっこいいですね。そりゃあアテナイは勝ちましたよ。だけどアテナイにはクセルクセスもレオニダスもいないじゃないですか。

『歴史』に一貫するテーマは驕慢(ヒュブリス)への諌めです。私はペルシャ贔屓でずっと応援していましたが、やっぱりサラミスの海戦負けましたね。残念です。でも、戦う前から勝ち目ないのは私でもわかりますよ。気付こうよ。だってペルシャは内陸で海ないんだし、海洋国家相手に海戦で勝てるわけがない。同じ事は赤壁の戦い元寇についても多分言えます。曹丕なんて船酔いしてるし。最初からやっちゃいけない戦いですよね。でもやっちゃうのが性なんですかね。しかし読んでて全般的に思った事ですが、戦術荒すぎ。『三国志』とは大違い。本当にこの世界なら孔明一人で天下取れたんじゃないですか。八卦の陣なんてありませんよ。

ヘロドトスの記述は史実に正確でないと後世に批判されてきました。ともかくデルフォイ神託は絶対に外れないですしね。リディアのクロイソスなんて可哀想に、ペルシャを攻めれば大国を滅ぼせると神託を受けて戦争を始めたもののキュロスに敗北してしまいます。滅びる大国は自分の国だったんですね。なんじゃそら。私はヘロドトスに史実との完全一致は求めません。でも私の好きなところは、神の奇跡だのいかがわしい説であれ、どうしてそれを信じるか思考の道筋を書いてくれている事です。人間には真理を知る事は不可能ですから、彼のこの考える道筋こそ大切なんじゃないかという気が私はします。

 

アリストテレス『詩学』/ホラティウス『詩論』

アリストテレスの『詩学』は、あちこちで引用される有名な本です。悲劇のあるべき構造について書いてあります。

悲劇の主人公は、善人かわずかに欠点があるくらいの人が良くて、そういう人が不幸に陥る事で、観客は「同情」と「恐れ」を覚え、「浄化」(カタルシス)が生じるという事です。筋書きは現実に起こり得るもので、あくまで合理的でなくてはならず、不条理な出来事や神の登場は原則として好ましくないそうです。

不適切な例として、オイディプス王が予めライオス王の死に方について詳しく聞いていないなんて、現実的にあり得ない事だと書いてありました。確かにその通りですね。気がついてなかったですよ。だけど私は別にこういう矛盾は気になりません。だってこんな事言い出したら、水戸黄門に最初から印籠出しとけとかそういう議論になっちゃうじゃないですか。

不条理といえば『リア王』のラストなんかはそうかもしれません。コーデリアはあそこで死ぬ必要性はありませんし、まったく唐突です。私はコーデリアの死に感銘を受けましたが、アリストテレスによると不条理は悲劇ではないそうです。そこで私が逆に感じてしまうのは、主人公が正しい人ですべてが合理的に展開し必然的な帰結をたどったとしても、人は不幸になるものなのかという事です。そうだとすると恐ろしいですね。あるのはまさに同情と恐れです。

ホラティウスの『詩論』はアリストテレスが理念や理想を語っているとすると、より実際的です。観客に喜んでもらえるような作品を書くには、という事です。だから同じ合理的と言うのにも、アリストテレスとは内面的なものか人にわかってもらうためのものかの違いが出てきます。ちなみに私は個人的にはホラティウスの方が好きでした。例えば文章の書き方についても、簡潔にしようとし過ぎたらわかりにくくなってしまうし、すんなり読めるようにすると威厳がなくなっちゃうとかいう事が書いてあって、本当にその通りだなあと思いました。哲学者ではなく、実際に詩を生業としている人だという感じがします。それから、当時は詩とは狂気の賜物と思われていたので詩人は狂人を装っていたそうですが、ホラティウス自身は狂気に身を委ねる人ではなかったそうです。その辺も好きですね。

 

『ギリシア・ローマ抒情詩選』

岩波文庫で呉 茂一氏の訳ですけど、とても訳文がきれいでいいですよ。

エジプトの詩も少しだけ載っていて、冒頭にあるのがイクナアトンの「アトンへの賛歌」です。本人が書いたかわかんないですが、この詩はすごいですね。ただ者じゃないですね。その後は主にギリシアの詩が収録されています。サッフォーとか『海潮音』で読んで好きだったので載っていて嬉しかったです。

私は個人的に恋愛詩が好きなので、ローマのカトゥルスが中では一番でした。オウィディウスがなかったのはちょっと残念ですが。訳に気合いが一番感じられたのはホラティウスです。格調高いですね~。ホラティウスってあちこちで引用されてていいなーとは思っているのですが、なかなか邦語訳がないんですよ。訳しづらいらしいです。

あと、ちょっと気に入ったのは読人知らずのこの詩です。

ちょっぴり啖(くら)ひ、ちょっぴり飲み、さて大いに大病した挙げ句、やっとこさと、だがとうとう私も死んじまった、みなも一緒にくたばるがいい。

『賢治と鉱物』

宮沢賢治の物語に登場する鉱石について、鉱物の専門家が解説をしている本です。とにかく綺麗な本で、書店で目について即購入しました。グッジョブ工作舎

賢治は本当に石が好きだったんですね。採石場でも働いていたそうで、ノヴァーリスと似てる気がします。ノヴァーリスフライベルク鉱山学校を出て鉱山で仕事していたから、話の中にも鉱石がよく出てきます。

賢治の物語にも石は書かれることが多いですが、実際見た事がないものが多くて『十力の金剛石』とか九割妄想で読んだ記憶があります。これからはこの本をひもとけばわかりますね。鉱石については賢治の作品中でどういう使われ方をしているか詳しく解説してくれていますし、鉱石の性質についてもちゃんと専門的なことを理解しやすく書いてくれています。どちらも興味深く読みました。賢治が好きな人にも、石が好きな人にもおすすめな一冊です。