hanekakusiのブログ

『猫とかわうそ』http://hanekakusi.web.fc2.com製作日記です。読書の感想も書いています。

ネルヴァル『火の娘たち』

ネルヴァルの生前最後の著作で、短編集です。冒頭はデュマ宛ての手紙ですが、これを読んだ時には少々心配になりました。劇場に火をつけるとかいう話で、何やら陰謀説を唱えているのですが・・・違います。あなたはその女優にフラれたんです。若い頃はイケメンだったようですが、作品中にも自分で書いていたでしょう。「何て細くてきれいな金髪なのかしら」― 毛根が弱かったんです。仕方ありません。

しかし中の作品はまったく心配には及ばず・・むしろどうして自殺してしまったのかと思いました。それにしてもこの人の書くものって毒とか悪意がほとんど感じられない、というか通常は人にあるはずのそれが抜け落ちているのかもしれません。読んでて何だか愛おしくなりました。

ここに書かれているのは主に叶わぬ恋や、悲劇の恋の物語です。どうしてか、愛し合う二人が結ばれて幸せに暮らしました、とはならないのです。『シルヴィ』の主人公は幼なじみを愛し、また一夜出会った高貴な娘を、美しき女優を愛しました。そしてある女は彼は心変わりしたと言い、ある女は彼が愛するのは自分でないと言いました。しかし主人公は決して移り気ではありませんでした。彼が愛したのはいつもたった一人の女性で、その女性にはどんなに望んでも永遠に近づくことができないのでした。その女性は世界中のあらゆる女神の名で呼ばれながら、唯一の女性です。彼女の事をネルヴァルは『黄金の驢馬』の女神イシスに見出します。古文書の中に美しきアンジェリックの痕跡をさがしながらも、きっとこの唯一の女性を夢見たのでしょう。彼の愛はいつもひたむきでした。しかしネルヴァルの純真で、幾らか子どもじみた恋愛が叶えられることはついにありませんでした。「私のために存在していながら私の存在さえも知らぬ唯一の女性からは四百里も離れて。愛されていず、いつか愛される希望もない」

ネルヴァルはゲーテの『ファウスト』の翻訳者でもありました。「永遠に女性なるもの」のことを、彼は追い求めて行ったのでしょうか。「サイスの女神よ!あなたの信徒の中で最も大胆な者は、あなたのヴェールをかかげて「死」の像に直面してしまったのだろうか?」

ネルヴァル『暁の女王と精霊の王の物語』

シバの女王がソロモン王に会いに行って知恵を試す話がありますが、それをモチーフにしています。しかし旧約聖書とはかなり違った話になっています。オカルトです。読み手を選びます。私は多分、常人よりムー的な怪しい本は読んでるので、この本がただ個人的な思いつきを並べたトンデモ本ではないという事はわかりますし、神秘主義的な著作でここまで上質なものは稀だと思います。本当に、この手の作品は殆ど本物には出くわしません。これと比べたら、スウェーデンボルグクロウリーも全然大した事ないですよ。

ヘッセの『デミアン』に、グノーシスの神アプラクサスが出てきましたし、カインの印は強者の証だみたいな事が書いてあったと記憶しています。そういう異端的な思想に理解があると取っつき易いかもです。この本でも、カインの末裔は特別な力を持った存在として現れます。アベルの子孫は土から作られて嫉妬深い神に屈従しているのに対し、カインの子孫は火から作られて真の知恵を持ち、自らが神のような創造力を有し、地下のマグマをも意のままに操ります。カインの子は、アベルの末裔の欺瞞を次第に暴いて行きます。

この世界の秩序や権力により弱者は犠牲になり、しばしば狡猾さは誠実さに勝利します。その中で真の知恵と気高さと美を象徴するうら若き女性として、シバの女王が現れます。彼女はネルヴァルの描く永遠の女性であり、何としても守られねばならない存在です。女王は果たして敵の謀略に落ちてしまうのか。聖書のストーリーが前情報であるだけに、え、本当にこうなるの!?と最後まで気の抜けない展開でした。

私としては本当に面白く読ませていただきました。でも多分少数派です。ここまでネルヴァルをわかってしまう訳者の中村真一郎ヤバいんじゃないかと思います。素晴らしい作品ですが、普通の人にはお勧めしません。意味不明で終わると思います。

『心理療法の光と影』

名前の長いユング派の人が書いた本です。読んだ方がいいと勧められて読みましたが、面白かった、というか恐ろしかったかも。

ここで主に取り上げられているのは医療従事者や教師などの援助者です。言うまでもなく本来は人を助けるための職業なのですが、それなのに彼らが助けを求めている人を逆に苦しめることは良く起こります。それは何故だろうかというのがこの本のテーマです。また援助職でなくても、親や人を助ける立場にある人は皆、陥りかねない問題と言えます。

著者によると、援助を与える者と受ける者の間には力の差があり、前者には後者を支配して自分のために利用したいという欲求が起こるそうです。自分は完璧な人間であろうとし、相手には自分の影を背負わせて、永遠に未熟な状態に留めて依存させようとする。当然、本来の援助は妨げられてしまいます。これを読むと今まで自分の会った学校の先生なんかを思い出しもしますが、自分自身、人に手を貸すつもりでかなり余計な事をして来たかもしれません。

しかし、日本人はスイス人ほど影を恐れませんし、ここに書かれているように、善意から何かをすれば必ず無意識の中では同量の悪意が生まれるというのは本当だろうかとは思います。 日本人はそこまで善悪二元論ではないことでしょう。とは言え「あなたのため」と言いながら、その実利己心から行動しているというのは世界中どこでもよくある事です。どうしたらそれを防げるのでしょうか。著者は、医療従事者は自分の中にも患者がいる事を忘れてはいけないと言います。教師の中にも本来子どもがいます。一方的に援助を与える側になり、自分には相手にあるような未熟さや弱さなどないと思いはじめると危険です。医者や教師であっても、他の人よりそう物がわかっているわけでもありません。自分たちにも弱さがあると自覚し、援助される相手や親しい人との関わり合いで、自分も治療や成長を経験していく事が大切だという事です。

私は相手に何かをしてあげようと思った時、利己的な意味ではなく、それが自分のためになるかどうかには気をつけようと思っています。自分にとって何もいい事がなくても立場上やらなくてはならないような場合は多いですが、それは多分相手のためにもなってないんでしょうね。

中原中也『ヂェラルド・ド・ネルヴァル』

先日、中也の自筆原稿を見る機会があったのですが、中にネルヴァルの『黒点』がありました。私はランボーは正直あんまりわかんないんですけど、ネルヴァルいいなと思って少し読んでみることにしました。幸い、中也のネルヴァル訳は青空文庫にありました。『黒点』など4編が訳されています。

そのうち『アルテミス』については原文とも照らし合わせてみました。細かい文法は「?」のところもありますし、専門の中村真一郎訳の方がやっぱり上手いかもしれませんけど、こうやって中也が読んだということが何より嬉しいです。

ネルヴァルは発狂したと書いてありますが、発狂と言っても原因は色々なので、私としては何でかが気になります。今まで調べたところでは、統合失調っぽいかなとは思います。他の作品もちらちら読みはじめていますが、恐らくかなり優しい人なんじゃないかという気がします。(統合失調は基本、善人しか罹らないという認識です)ゴーチェやデュマも彼とは仲良くして気にかけていたようです。

ネルヴァルが発狂し首を吊ったと書いた後、中也はこうつづけます。「笑つちや不可ねえ、狂人といふものは恐らく諸君のように結構な適従性を持つて生まれなかつたのだ」これは中也自身にも言えることでしょう。彼も息子の死により鬱病を発症し、快復しないまま世を去りました。当時は薬もないですし、致し方ありません。しかし、以前は私も何でも適従して生きて行くのが良い事だと思っていましたが、最近は敢えて適従しない生き方もあるかもしれないという気がします。人生は意味や理由で説明できないことの方が多いですからね。

三島由紀夫『サド侯爵夫人』

やっと今年1冊目の読書ができました。やれやれです。

近代戯曲屈指の傑作と名高い『サド侯爵夫人』ですが、私は正直あまりピンと来ませんでした。私はサドが好きですし、自分のイメージするサドと作中のサドが違ったのがいちばんの原因でしょう。

私は三島由紀夫に関しては昔読んだ『仮面の告白』で知っているだけですが、多分サドとは生い立ちもキャラクターも余り似ていないような気がします。サドは本当の意味で無神論者ですから、三島の言うような背徳の美学を追求したわけでもないし「天国の裏階段」にも興味なかったんじゃないでしょうか。サドの目指したのは芸術の創造よりも真実の告発なんじゃないかと勝手に思っています。少なくとも、サドは体をムキムキに鍛えてヌード写真集を撮る趣味はない気がします。

サド侯爵夫人ルネについても、別の所で資料を読んだ時には、いかにもDVを誘発しそうな女性、似た者夫婦という印象を受けました。三島は、献身的に夫の出獄に尽力したルネが夫が帰って来た途端に離婚した、その理由は何故かという疑問から始まってこの戯曲を書き上げたそうです。まあでも、現実には不実な夫に尽くしつづけた妻が、相手が自分の元にせっかく戻ったのに別れてしまうというような事例は決して珍しくはありません。一種の復讐であったりとか、幾つかの説明ができると思います。

しかし、この戯曲はあくまで、史実はともかく三島の作り上げた一世界として鑑賞すべきでしょう。作中に登場するのは6人の女性で、男性は出て来ません。貴族階級の優美な女性たちが、卑猥な言葉をあれこれと上品な口ぶりで語り合う、当時としてはかなりセンセーショナルな作品だったようです。クライマックスのルネの台詞、サドからは眩い聖なる光が溢れ出しているという、あれは圧巻です。私は個人的には、話の本題とは関係ない部分かもしれませんが、ルネの「女が男にだまされることなんぞ、一度だって起りはいたしません」という台詞が何気にすごいと思います。ルネは最初から、サドの本性を何もかもわかった上で尽くしていたんですね。さらっと出て来ますけど、これが物事の本質なんでしょうかね。

『王書(シャー・ナーメ)』

10世紀に書かれたイランの英雄叙事詩です。原著は50代の王に渡り記述した大作らしいですが、日本語に翻訳されているのは一部分だけです。私は東洋文庫のを読みました。古来の伝承を集めたものみたいで、11世紀には『ルバイヤート』が書かれている事を思うとかなり内容的に素朴な印象を受けました。似ているのは日本の『古事記』だと思います。立ち位置的にも多分近いです。イラン人の民族意識の拠り所みたいな感じです。イランの軍歌には『シャー・ナーメ』由来のものが多いそうです。イラン人の愛国心を高揚させるとか。この話ではイラン人は善に属し、アフラ=マズダの側にいます。それに対しトルコ人は悪しきアーリマンの権化です。そこで英雄たちは善と悪の戦いを繰り広げるわけです。

私が読んだのは、主に英雄ロスタムにまつわる物語です。この人は生まれた時から1歳児くらいのサイズで、ラオウみたいにデカくなって黒王号のような馬に乗っていました。ムチャクチャ強くて築いた屍の山は月まで届いたとか。こえー。ちなみに竜退治もしています。この最強の勇士ロスタムなのですが、栄光の最中にイランに侵攻して来たソホラーブを、息子とは知らずに戦って殺してしまいます。英雄が年若い息子を殺す話は世界中にありはしますが、しかしこの話は息子の存在を忘れていたクー・フーリンとは違い、ロスタムも我が子を気にかけ何度も相手が息子でないか確認しています。ソホラーブの方も父親に会いたがっていて必死にさがしているのに、目の前の敵が父だとは最期まで気付かない。このあり得ないほどのすれ違いに、読む者は否応なしに神意とか宿命とかいうものを感じさせられます。この息子を迫害して殺してしまう逆オイディプス現象は、本書に一貫して起こるテーマです。ロスタムは更に、王に嫌われた無垢な王子も殺さねばならない事になり、次第に命運を失って死を迎えます。

言うまでもなく、息子は自分の後を担う存在ですが、同時に自分の地位を脅かす存在でもあります。『金枝篇』の ように老齢の者が若者に殺されて代替わりするのではなく、老齢の者が若者の芽を摘み取って、それによって子孫は途絶え自分も殺してしまうというのは皮肉な結末です。この「子殺し」のテーマがどれだけイラン文化に普遍的かはわからないですが、そう言えばキュロス大王も親に殺されかけてましたね。しかし、この息子を持つ父親のジレンマは恐らく世界共通のテーマなのでしょう。

更新しました

ホームページをやっと更新できました。

今年は私にとって内面的にはかなり色々変化がありましたが、外面的な成果の乏しい年でした。翻訳もあまりはかどりませんでした。

暇なだけが取り柄の私が次第に多忙になって来たのは残念ではありますが、致し方ありません。これからもなるべく時間を取って頑張ります。