hanekakusiのブログ

『猫とかわうそ』http://hanekakusi.web.fc2.com製作日記です。読書の感想も書いています。

バシュラール『火の精神分析』

バシュラールと言えば、白いフサフサのお髭が格好いいので読みました。高校時代、私の友人は「ファラデーさんステキ」とか言って青春の日を空費していましたが、私は断然ケクレ派でしたよ。

客観的視点ではなく、主観的視点から火というものを分析しようという本です。私はバシュラールは初めて読んだのですが、端的に言うと1冊目には向いていない本でした。今度、もっと入りやすい作品を読もうと思います。理解が十分出来たとは言えません。バシュラールは膨大な文献を研究し尽くしてこの本を書いているはずなのですが、論理の途中経過がまったくないので、あらゆる結論が突飛に思えてしまいました。私だけでなく、多くの読者は煙に巻かれてしまうのではないかと思います。でも、面白い話もありました。「火はエディプスコンプレックスを内包している、何故なら生まれてすぐに自分を産んだ木片を燃やそうとするから」これは火の神を産んで死んだイザナミとも繋がりそうです。それから、アルコールを飲み過ぎると体が発火して焼け死ぬと信じられていたというのもありました。この迷信はよほど人々に浸透していたらしく、何と自然主義文学のゾラも題材にしているそうです。

しかし、私がしっくり来なかったのはノヴァーリス・コンプレックスの話で「青い花は本当は赤いのだ」と結論づけている事です。そこでちょっと、私の言い分をバシュラール氏に聞いてもらおうと思います。意味不明ならすみません。青い花は赤い、なるほど、純粋なる矛盾に違いない。水の中でも息ができるのだから、それはそうだろう。確かに空は赤い、海は赤いと言っても構わない。そのとおり。しかし、それが一体何だと言うのだろう。

『ジョゼットおなべのなかにパパをさがす』

不条理劇で有名なイヨネスコの絵本です。

ジョゼットのママは、ゆっくりするために実家に帰っています。パパはママが居ないので羽根を伸ばしすぎて、暴飲暴食で具合が悪くなっています。今はジョゼットの相手はしていられません。パパはバスルームにこもってしまいます。ジョゼットが構ってもらいたがると、パパは言います。「パパはもうここにはいないよ。向こうへ行って探してごらん。テーブルの下は見たかい。戸棚の中にも、お鍋の中にもいなかったかい、オーブンの中に鳥と一緒にいなかったかい」

ジョゼットは一生懸命パパを探しますが、当然何処にも見つかりません。面白いやり取りではあるのですが、しかし小さな子どもにとって、親がいなくなる事ほど怖い事はないのではないでしょうか。子どもは大人に依存しないと生きられないからです。実際この話でパパのいなかったのは短時間だったので問題ないですが、場合によってはとても残酷な事かもしれません。昔、ウーピー・ゴールドバーグ主演の映画『コリーナコリーナ』で、父親が妻が死んだと言い出せずに「バスルームにいる」と言ってしまい、娘が急いで探しに行くもののそこに母親の姿はない、というシーンがありました。一歩間違えれば悲劇です。

でも、ここではそんな悲劇は起こりません。やがてヒゲを剃り終えて、パパは出てきます。「ここにいるよ」そしてジョゼットを抱き上げます。ママもそのまま出奔してしまう事もなく普通に帰って来ます。こうしてジョゼットは永遠にパパとママから締め出され、ネバーネバーランドへ行ってしまう事もありませんでした。パパもママもほんの少しだけ彼らの事情で役目を外れただけ、また元の家族に戻ります。ジョゼットは幸せな子どもですね。

まきまきの謎

16世紀ドイツの民衆本『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』を読みました。いたずら好きのティルが誕生してから死んで埋葬されるまでの、いたずらエピソードが94話あります。司祭様の寝ていたベッドにこっそりウンコをしておくとか、カラシの中にウンコを混ぜてコックに味見させるなど(ウンコかカレーかという問題は万国共通なのでしょうか)ティルの悪ふざけにかかると貴人も庶民もありません。いたずらの内容はかなり「不愉快」なものも多いですが、ティルは不思議と憎めません。例えるならスカトロ趣味の磯野カツオといったところでしょうか。とにかくウンコの話が多いです。引く人もいらっしゃるでしょうが「うんこー」と言ってはしゃいでいた頃の童心を思い出せれば、きっと面白く読めることでしょう。

しかしこんなウンコ話が、読み進めるにつれて切なくも感じられるのです。ティルは根っからの放浪者で、定職を持って一つの土地に落ち着く事は出来ません。いたずらをしては人々に疎まれ居づらくなり、別の土地へと移って行きます。こんな風に孤立して流れて行くより、多少の我慢はあっても決まった仕事をして一所に居着いた方が楽に決まっています。ティルにとって、町を追われる原因になるだけで何の得にもならないような、ボランティアとしか思えないようないたずらも多々あります。「不幸な星の下に生まれた」とティル本人が言っているのは笑い話かもしれませんが、こういう生き方しか出来ない彼の姿に、私は悲しみさえ覚えます。解説によると、これには作者のボーテが脚に障害があり、その上嫌われ者の徴税役人だった事も影響しているらしいです。

特に死に際が惨めすぎて笑えません。罪を悔い改めようと訪れた修道院でもいたずらをしてしまい「勝手に死んで悪魔の元へ行け」と追い出されます。死に瀕してもいたずらで下剤を盛られ、死の床に来た母親や聖職者も遺産目当てでしかありません。「死に際を見ればどういう人間だったかわかる」と人々は嘲笑います。しかし、神の救いも人々の縁も最期まで頼む事なく、アウトサイダーとしての生き方をあくまで徹底したティルの不屈の姿は正に圧巻です。だからこそ彼は立ったまま葬られ、永遠に生きる事となったのでしょう。

私は岩波文庫で読みましたが、中世の挿絵もついています。挿絵は当然ティルがウンコをしている絵が多いですが、気になるのが絵のウンコがぐるぐる巻いていることです。こういうソフトクリーム型のまきまきは鳥山明の発明だと勝手に思っていましたが、まさか中世ヨーロッパからの伝統があったとは知りませんでした。しかし私が未熟だからかもしれませんが、現実にはこういう形状のウンコは見た事がありません。どうして絵に描くと巻くんでしょうか。誰か詳しい人がおられましたら教えて下さい。今回も下らない事をどうもすみませんでした。

『ゲーデル・不完全性定理』

ゲーデル不完全性定理と言えば数学者にも難解なことで知られていますが、これは『大学への数学』の吉永良正氏が書いたブルーバックスで「中学生にもわかる」という売りです。(まあしかし、私の通っていたようなリアル稲中は恐らく想定外でしょう)難しい話をよくここまで易しくしてくれたとは思いますが、やっぱり大人にも難しい内容です。ただ、高校数学までのレベル以上の理論は確かに使ってはいません。

この本については不完全性定理を扱った岩波文庫でプロの数学者の方が「中学生にわかるわけがない」と苦言を呈しておられますし、専門家の視点ではどうかはわかりません。しかし数学偏差値30台の私はこれ以上の本格的な数学書を読み解くことはどう頑張っても不可能なので、ありがたく思います。私でも一応最後まで読めたので、高校レベルの集合論を理解しておけば誰でも理解できることでしょう。

ところで人間は宇宙のすべてを理性で説明することは出来ない、その事は希望でしょうか絶望でしょうか。私自身は、常に探求し続けて、その時その時の最善を求められる柔軟で流動的な世界というのは悪くはない気がします。余談ですが、私にゲーデルを教えてくれた人は不完全性定理のために、自らの子どもへの愛情もやはり完全ではないのかと思い悩むという厄介な状況に陥っていました。そういう場合はフロイトの「人は愛すると同時に憎むことも出来る」という言葉を思うといいのかもしれません。形而上学的な命題をそのまま実生活に当てはめると往々にしておかしな事になるようです。

 

古典を読む理由

今日は少しどうでもいいことを書こうと思います。私は古典が好きで、しかも大体単純に古ければ古いほど好きです。『竹取物語』とか『ギルガメシュ叙事詩』がやっぱりいいなと思います。ホームページの翻訳は著作権がある事もありますが、そうでなくてもほとんど古典ばかり読んでいます。

古典を読む理由は人それぞれだと思いますが、私にとって現代の作品は上手く出来すぎている気がします。作者も編集の方もとても優秀で、筋が通って合理的で、完成度が高く、どれを取っても巧みで非常に面白いです。私も以前はそういう上手く書いてある作品が好きでした。だけど今は、素朴で場合によっては拙いとも言えるような作品が愛おしくてたまりません。場合によっては作者自身も「何でこんなもの書いてしまったんだろう」と頭を抱えたくなるようなものの中に、より真実がある気がするのです。

それに、現代の生活で悩んでいることの解決の糸口が、ちょうどその時読んでいる古典作品の中に見つかることが少なからずあります。膨大な現代の作品の中にそれを探すよりも、限られた古典の中に見つける方が恐らく格段に楽です。

ここしばらく長年読みそびれていたギリシアの古典を読んでいますが、読み手によって解釈の幅がかなり広い事に気付きます。私は私の勝手な感想を述べましたが、本当に色々な見方ができて、様々な可能性を考えさせることで読み手を豊かにしてくれるように思います。反駁の余地のない作品より、読者をあれこれ悩ませたり戸惑わせたりしてくれる方が実りが多いのかも知れません。『羅生門』も初版は下人は盗賊になって終わったそうですが、その後、下人の行方は「誰も知らない」と書き換えています。行く先をはっきり教えてくれた方が気分はスッキリするんですが。

アリストファネス『女の平和』

私はこの作品は大好きです。ただし内容の8割は下ネタです。面白いですが現代では上演不可能かと思われます。下品すぎるのでここに詳細は書けません。しかしアリストファネスは一貫した平和主義者であり、低俗なお笑いの背景にはペロポネソス戦争反戦というテーマが存在しています。この作品も女たちがセックス・ボイコットにより全ギリシアの男たちに戦争をやめさせるという何とも法外な筋書きです。ラブ&ピース、フロイトの言うタナトスへのエロスの勝利ですね。

読んでいてアリストファネスは本当にいい男だと思いましたよ。ただのスケベじゃないですよ。話の中でボイコットを決行するにあたり、男が殴って来たらどうしたらいいかと問いかける女がいます。それに対する答えがこうです。「仕方ない、しぶしぶ従うのよ。暴力で得たものには楽しみはないし、そのうえに、苦痛を伴うこと必定ですからね。なあに、すぐにやめるわよ。女と協力しなければ、男はけっしてけっして愉快にはなれないんですからね」サド侯爵の変態おじさんには絶対ありえない発想ですね。素晴らしい。

しかし私が感じずにはいられないのは、ギリシア人なんだから例え女がいなくなっても美少年がいれば事足りるのではなかろうかとか、別の女を盗んで来ておしまいではないかということです。これについては現にメロス島事件なんかも起こっています。『女の平和』の根底には男女の間の切っても切れない絆が前提としてあって、それが女たちのクーデターを成功させた条件であるように思います。いい話だとは思いますけど、すべての男女の関係がそうではないですね。そもそも「暴力で得たものには楽しみはない」という人が戦争に明け暮れるでしょうか。この作品も平和主義者のアリストファネスも大好きですが、果たして戦争推進派の考えを変えさせる力があっただろうかという疑問は抱かざるを得ません。

ところで中の女性の台詞で「私は自由な市民だ」というのにはちょっと驚きました。当時のギリシア市民は男だけでなく、女にもこういう気概があったのですね。

 

アイスキュロス『オレステイア』

『オレステイア』は『アガメムノン』『供養する女たち』『慈しみの女神たち』の三部構成です。第一部でアガメムノンが妻クリュタイムネストラに殺害され、第二部で息子のオレステスが仇討ちし、第三部で復讐の女神に追われたオレステスが許され、女神は慈愛の女神に変わるという話になっています。個人的には最後のオレステスの裁きを決める裁判が面白かったです。

私はクリュタイムネストラが怖くて仕方がありません。どうしても身近な人と被るんですよ。彼女の言動は一貫しないところも多いですが、それは彼女が一般に虐げられた女の呪いや憎しみを具現化した存在だからでしょう。当時の女性は自分の運命を決めることなどできませんでした。自分を娶った男に仕え、子を産むしかありません。しかし夫にも所有されず母になることも拒むとしたらどうなるでしょうか。クリュタイムネストラアガメムノンに愛されていません。夫はつまらぬ名誉の為に戦争に出かけて10年帰らず、その間に数々のトロイア女と関係を持ち、帰還の際も愛人のカサンドラを伴っています。それに戦争を上手く行かせるために、娘を生贄にもしました。こんな夫を果たして貞節に待ち続けねばならないのでしょうか。クリュタイムネストラの対局はオデュッセウスを待ち続けたペネロペでしょうが、考えてみればオデュッセウスは魔女の元での長く楽しい虜囚生活は別として、ナウシカにも誰にも手出ししてないですし、いつも息子のテレマコスを自慢にしてもいて、いい家庭人だったことが伺えます。だから単純に比較してクリュタイムネストラを責められはしません。クリュタイムネストラ自身、この殺人について罪悪感はまったくありませんでした。彼女にも彼女なりの正義があったのです。

果たしてクリュタイムネストラの夫殺しか、オレステスの母殺しかどちらが罪深いでしょうか。オレステス自身、正義と正義のぶつかり合いと言っていますし、容易に判定はできない問題です。そこで裁判が行われます。ここではアポロンの証言が印象的です。親子で血のつながりがあるのは父子だけで、母子にはない。母親は父親の子種を宿して育てる定めにあるだけだからと言うのです。結局、陪審員の票は同数ずつに割れましたが、アテネが「私は女から産まれていないから男を贔屓する」と言って一票を投じ、オレステスの無罪が決定します。

復讐の女神は憤りますが、アテネに言いくるめられて、人々に恵みを与えることを喜びとする慈愛の女神に変容します。こうしてめでたしめでたし、というわけです。二つの正義のうちより当時の社会に適した正義がこうして選ばれました。尽くして慈しむのを女の幸せにせよ、ということです。

話は変わりますが、謡曲『金輪』では捨てられた怨みを晴らしに来た女を安倍晴明が退散させます。女の側にも理はなくはないですが、彼女たちの復讐を正当化するのは社会体制に適しはしません。虐げられた女の恨みは、世の中のためには何とか押し込めておく必要があるのですが、そう簡単に慈愛の女神になどなってくれるものでしょうか。そうして今までずっと押し込めて来た結果、女の恨みは現代社会にも深く黒々と渦巻きつづけているのでしょう。